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諏訪メモ   高遠氏 家系

この記述から有賀峠から高遠に向う一帯に有賀所領が有ったと考えます、今でもこの当たりに有賀姓が集中して存在するようです。 本当に信州の山猿集団ですね。それにしても上社(神家・総領)と下社(金刺系・大祝)があまり仲良くありませんね。 諏訪族の群雄割拠、内部勢力争いを上手く使って信玄が諏訪群を手中に収めた記録になっています。

高遠氏 家系     梶の葉 葉1枚柄1 単葉家紋デス   (諏訪上社大祝諏訪氏支流)
高遠氏は諏訪上社に大祝として奉仕した諏訪氏の一族である。南北時代の暦応三年、伊那郡大徳王寺城の戦で敗れた諏訪大祝頼継 の嫡男貞信(信員ともいう)を始祖とする。ところが、高遠氏は木曽氏の支族とするものあるが、高遠氏歴代のうちで実在の確実 な継宗・頼継がいずれも「諏訪信濃守」「諏訪信州」を称していることから、諏訪氏の分流であることは間違いない。室町時代の 上伊那竜東では、高遠に本拠をおく諏訪高遠氏を主軸にした国人・地侍による地縁的結合がみられるようになる。
 伊那郡竜東で高遠氏が台頭しはじめたころ、諏訪郡では府中の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、 上社と下社が対立し抗争が繰り返されていた。さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家と に分かれ、一族の内紛を招いていた。文明十一年(1479)九月、伊那の小笠原氏内部でも鈴岡城の小笠原政秀と松尾城の小笠原家長 との間で争いが起こり、諏訪大祝継満は政秀を支援するため下伊那に出陣し、この継満と義兄弟になる高遠継宗も継満に従軍してい る。
また、文明十三年四月、諏訪惣領政満は、仁科氏・香坂氏と協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。このとき、 政満が手兵として率いたのが伊那郡の諸族であった。このように伊那郡の諸豪族は、小笠原氏や諏訪氏宗家の動向に左右されること が多かった。
 文明十四年になると、高遠継宗と高遠氏代官の保科貞親とが荘園経営をめぐって対立し、大祝や千野氏が調停に入ったが不調に 終わり、保科氏に千野氏・藤沢氏が同心して、笠原氏らの支援を受けた継宗と笠原で戦い、高遠氏は敗れた。この笠原の戦いに、 諏訪惣領政満から保科側に援軍が派遣されている。その後、保科氏は高遠氏の配下に戻ったようで、下剋上には発展しなかったよ うだ。しかし、この争いに諏訪惣領の政満が、諏訪大祝継満と盟約関係にあった高遠継宗に兵を向けたことから、惣領家と大祝家 との対立は決定的なものとなった。
 翌十五年(1483)一月、大祝継満は惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠った。これに対し、 矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は、大祝のとった行動を支持せず、千沢城を襲撃した。このため、大祝継満側では父頼満 をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、継満は高遠継宗を頼って伊那郡に逃れた。翌年五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、 高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、上社近くの片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。十二 月、さきに継満に殺害された政満の二男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政を一つにした諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。
 長享元年(1487)七月には、高遠継宗は混乱状態の続く諏訪郡に侵攻し、諏訪惣領方の有賀氏と戦った。高遠勢は鞍懸に陣を構え て有賀勢と対峙して、竜ケ崎に城を築き付近一帯の支配拠点としている。また高遠氏は有賀の戦いの際、上伊那郡北部にも進出して 支城を築き支配領域の拡大を図るなど、有力国人として成長を遂げていった。

●戦国時代の高遠氏
 応仁・文明の乱を経過した十五世紀末期以降になると、全国では領国一円支配を実現した戦国大名が群雄割拠したが、信濃統一を 実現する戦国大名は信濃内部からは現れなかった。すなわち、信濃守護家の小笠原氏は内部分裂を繰り返しており、国人のなかには 諏訪氏や高遠氏のように局地的に領域の一円支配を実現した有力国人もいたが、戦国期の信濃は群小割拠の状態にあった。このため、 隣国の甲斐で武田氏が守護大名から戦国大名に成長すると、領国の拡大を図って信濃への侵略をはじめた。
 信濃で武田氏によって侵攻された諏訪郡は、甲斐に隣接し信濃の各方面に通じた交通の要所であり、信濃侵略の基地としての 好条件を備えていた。しかも、諏訪郡を支配する諏訪氏が一族の内紛のあとで、不安定な政情にあった。享禄元年(1528)八月、 諏訪郡侵攻を開始した武田信虎は、諏訪勢の抵抗にあって敗退したが、その後も両者の間で攻防が続いた。
 しかし、天文四年(1535)に和睦し、同九年、信虎は諏訪頼重に娘を嫁して婚姻を結ぶなど諏訪氏に対して懐柔策がとられた。 ところが、天文十年、信虎は嫡男晴信によって国外に追放され、晴信が武田家の家督を継ぐと強硬策に転じ、諏訪頼重に対する 討伐が進められた。翌年六月、晴信は諏訪郡に侵攻し、高遠頼継はこれに通じた。これに対し、諏訪頼重は上原城から桑原城に 移って抵抗したが、七月に武田氏に投降、甲府に連行されて自刃した。この頼重の死によって諏訪惣領家は滅亡した。
 諏訪惣領の座を狙った高遠頼継は、諏訪郡制圧後の処遇を不満として、上原城を襲撃し下諏訪に放火して上・下社を占拠した。 しかし、晴信の軍と安国寺前の宮川辺で戦って敗れ、頼継は伊那高遠へと帰っていかざるをえなかった。敗走した頼継を追って 武田軍は伊那郡に侵入して藤沢口に放火したことから、藤沢頼親が武田氏に投降した。そして、上伊那口にいた高遠氏方の守備兵も 掃討され、諏訪郡は完全に武田氏の制圧下におかれた。高遠頼継の諏訪郡進出の目論見は失敗し、かえって武田氏に伊那郡侵攻の 口実を与えることになった。
 天文十三年(1544)、さきに武田氏に投降した藤沢頼親が高遠頼継と結んで叛旗を翻したことから、武田晴信によって頼親が 荒神山に構えていた城砦が攻められた。しかし、藤沢勢はよく戦い晴信は上原城に退去し、その後、甲府に帰ったことから、 高遠衆は、諏訪郡に乱入して武田氏に就いた上社神長官守矢氏の屋敷を焼き払った。
 翌天文十四年、晴信は周到な準備をもって高遠を攻略し、高遠城は晴信の前に屈した。このとき、頼継は甲府に連行されたよう である。その後、晴信は藤沢頼親の福与城を攻めたが、藤沢氏側に府中の小笠原長時、下伊那の小笠原信定らが加勢したことから 長期戦の様相を呈した。しかし、戦い半ばで信定の軍が撤退し、長時が本陣をおいた竜ケ崎城も陥落したため、福与城は孤立状態 となり、藤沢頼親は武田氏に降伏した。
 天文十七年(1548)二月、上田原で晴信が村上義清の軍に大敗すると、藤沢頼親は再び叛旗を翻し、諏訪郡の下社攻めを敢行した 小笠原長時や村上義清らと行動をともにしている。このため、武田氏は上伊那支配において在地に影響力をもち高遠頼継を起用し、 甲府にいた頼継を高遠に帰している。同年七月。諏訪郡に小笠原長時が総攻撃を目論で進軍したが、塩尻峠で晴信の軍によって大敗、 二年後には武田軍が府中を攻めて、小笠原長時の拠る林城を陥落させ、筑摩郡を制圧下においた。
 こうして信濃の大半を手中にした武田氏は、残る北信と南信で未制圧の下伊那に対する侵攻を同時に進めた。下伊那侵攻の準備を 進めた武田氏は、天文二十年(1551)上伊那の保科正俊に参陣を呼びかける一方、さきに高遠に帰した頼継の郡内に対する影響力を 嫌い、翌天文二十一年甲府に出仕した頼継を自刃させた。ここに、高遠氏は滅亡した。高遠氏の遺臣に対しては、知行を安堵するな どの措置がとられている。
 武田氏による下伊那侵攻は、天文二十三年に開始され、小笠原信定、長時らは逃亡し、下伊那の大半の諸氏は武田氏に投降した。 唯一、最後まで抵抗した知久頼元父子は武田軍に捕らえられ、甲府に送れれて殺害された。高遠氏の滅亡後、高遠城には、郡代の 秋山信友が入城して伊那郡統治を行った。
【資料:上伊那郡誌】

■参考略系図 (画像なので省略) 頼継は継宗の子とするものが多い。

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