― 太平洋戦争〜沖縄戦 ―
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沖縄平和祈念資料館

旧日本軍酸素魚雷

 九三式魚雷は昭和8年に、呉海軍工廠水雷実験部で発射実験に成功し、昭和10年に正式採用。大型化せずに高速、長射程を実現する酸素魚雷だが、純粋酸素は燃焼室で他の物質と接触すると
爆発する危険性があり、米英では開発中止。日本だけが開発に成功したのは、空気で燃料に点火
後、徐々に酸素に切り替えて最終的には純粋酸素で燃焼させるという着火方式で、酸素を用いる
ため気泡が全く出ず、雷跡が見えないという相乗効果も生んだ。

 この画期的な魚雷は絶大な戦果をあげたが、意外な自爆事故が多発、水中を高速で航走するため、深度によっては先端に空洞現象が発生し、異常振動で起爆尖を刺激して自爆した。

平和の礎(いしじ)
太平洋戦争沖縄戦戦没者20万人全員の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)。
軍人・民間人をはじめ、アメリカ・韓国・中国などの人々の名前も刻まれている。
  

ひめゆりの塔
沖縄戦で従軍看護婦として、兵士の世話をしたひめゆり部隊を祀った塔。
ひめゆり部隊は、沖縄師範学校女子部と、第一高等女学校の生徒で編成。
  
1945年05月25日に撤退命令が出た南風原陸軍病院から、
ひめゆり学徒は本部、太田、第一、第二、第三の各外科壕に配属された。
06月18日ひめゆり学徒の解散命令がでた。
翌19日、脱出のため、現在ひめゆりの塔がある第三外科壕に集合中、
ガス弾を撃ち込まれ多数の死者を出した。 

06月19日「米軍に包囲された壕の中で」師範本科1年 守下るり(18才)

解散以前は軍とともに行動していたが、解散後は、
避難民と同じように砲撃の中を逃げ回る。
ひめゆり学徒の死者はなんと解散後に多く出ている...。

魂魄の塔(こんぱくのとう)
戦後、村民・地域住民などの協力で、 道路・畑の中など、いたるところに
散乱していた遺骨を集めて、三万五千余柱の遺骨をこの塔に祀った。
 昭和54年にできた国立沖縄戦没者墓苑 へ分骨。

健児の塔
沖縄師範学校男子部等の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。
学徒動員は沖縄戦の特徴で
ひめゆり学徒もそうであったように、
鉄血勤皇隊も
13〜19才で法的根拠無く動員された。
  
 鉄血勤皇隊の
13〜19才の子供たちは、伝令や通信のほか、
切り込み、急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って特攻を行った。
伝令なども、同じ文書をあえて3人に持たせて子供を走らせ、
そのうち1人だけがたどり着くけばよし、そのような任務であった。 
最終的に健児の学徒が自決した壕は健児の塔の裏手にある。